(1)畜産
下宿のある家では、専業でウシの畜産を行なって いる。この家が畜産を始めたのは 1978(昭和 58)
年からで、それ以前に畜産の勉強をしていたというこ とはなかったが、農業に機械が導入されて時間や体力 に余裕ができたこと、農業をしながらもさらに資金が 必要になったこと、ウシに魅力を感じたことなどを きっかけに畜産を始めた。
現在は黒毛和牛の親牛と生後 10 か月までの子牛を 60 頭ほど飼育しており、子牛は月 1 回小牛田で開か れる市場に 4、5 頭ずつ出荷している。以下には現在 この家で行なわれている畜産について記述する。
[ウシの品種]
飼育しているウシは、決まった品種のみを育てて いるわけではない。次々と新しい品種が出てくるため、
牛舎にいる品種も毎年少しずつ異なる。現在は、15 から 20 種類のウシを飼育しており、品種ごとの頭数 にはばらつきがある。
親の品種にはこだわっておらず、混血は問題とし ていない。子牛は購入された後に、肥育された土地の 銘柄がつくためである。
種牛は市場で買ってきた子牛である。子牛を購入 する際には、家畜改良事業団や宮城県畜産試験場が勧 めた種牛を飼う場合もあるが、自らの判断でウシを直 接選ぶ場合もある。
親牛は、子牛の中から売らずに何頭かを残す、ま たは市場で購入するなどして、年に 5、6 頭ほど新し いウシを入れる。その際に、年を取ったウシは市場に 出して売るようにしている。
[ウシの飼育]
午前 8 時から 10 時と午後 2 時から 4 時に、牛舎 内で食事の給仕を行なう。これをクワセガタと言う。
1 日の餌は、さまざまな原材料を配合・加工して作ら れる配合飼料を 1 から 3 キログラムと、乾草と稲藁 を混ぜたものを 5 から 7 キログラム程度である。
ウシは一度食べた草を胃に送ってから口に戻して、
また胃に戻す「かみかえし」をする。繊維がないと体 調が悪くなるため、繊維が豊富な稲藁は重要であると のことである。分娩前後のウシには体調管理のために
少し余計に稲藁を与える。
このように、1 回の食事では配合飼料を与えて回っ た後に、さらに稲藁を与えて回るので、管理者は牛舎 の中を 2 周する。稲藁は購入したものではなく、自 家の田で刈り取ったものを使っているが、それだけで は不足するため、不足分は協力してくれる家からも らっている。また、配合飼料は JA や一般の業者から 購入している。
水は、水道でいつでも飲めるようになっており、
ウシが吸いついて水の受け皿が下がると自動で水が出 るようになっている。
食事以外の時は、ウシはパドックなどで放牧して おり、時間になると自ら牛舎に戻ってくる。パドック に出られるスペースにいるウシは、妊娠していないウ シである。分娩が近いウシは牛舎内におり、そういっ たウシには生まれてくる子牛の下痢対策のための予防 接種を行なう。
妊娠は人口受精によって行なうが、出産の調節は していない。子牛は産後 9 か月から 10 か月くらいま で育てて出荷する。肥育牛や繁殖牛として飼養される 前の子牛をモトウシ(素牛)と言い、この家で生産を 行なっているのは、肉牛のモトウシのみである。
ウシの糞は小屋の裏にまとめられており、この家が 所有している田や畑、採草地などに堆肥として利用して いた。欲しい人がいた場合は売っていたと聞かれる。
[施設]
牛舎の北側にある放牧をするスペースをパドック と呼ぶ。周囲にはデンボクという電気牧柵をめぐらせ ていて、3 秒に 1 回電気が流れるようになっている。
牛舎は道を挟んで南、北に分けられており、それぞれ に用途が異なっている。
南側の牛舎には、牛舎内を仕切る鉄パイプ製の柵 の中に、成長状況毎に、ウシが数頭ずつ入れられて いる。まだ母親の乳を飲んでいる子牛とその母親が 5 から 7 組いる柵と、その月から翌月に出荷するウシ が雌雄別に数頭ずついる柵がある。親牛は柵に繋がれ ており、子牛は繋がれていない。
北側の牛舎では、これから離乳させる子牛を管理 している。他の柵は親牛と子牛が一緒に柵に入れてあ ることが多いが、離乳させる仔牛は親から離している。
さらに、北側牛舎の付近には、サイレージホッパー という飼料を保存しておくための装置があり、その中 に成長に合わせた飼料が入れられている。
[ウシの戸籍管理]
この家で飼育しているウシは全てコセキ(戸籍)
登録されている。ウシが盗まれても出荷できないよう にするため、1 頭 1 頭に鼻紋をとる。
(2)商店・行商
すでになくなってしまったものが多いが、新沼に はさまざまな商店や仕出し屋が存在していた。これら は時に車やバイク、自転車などで行商も行ない、ブラ ク内を回った。
以下には、かつてあったもの、現在もあるものを 含め店ごとに項を立てながら紹介をする。
[佐々木魚屋(佐々木ストア)]
佐々木魚屋はバイクで魚を売り歩いていた。1 週間 に 3 日ほど、バイクに木の箱を 5 段くらい重ねて新沼全 体を回っていた。1970(昭和 45)年頃から車で配達を 始めるようになってからは花やミカンも売っていた。
[宍戸会館(下宿)]
下宿にある宴会場が敷設された魚屋・仕出し屋で ある。1952(昭和 27)年頃に自転車での移動販売に より農家を回りながらカツオやニシンを販売し始め、
その後、オートバイや自動車で行商するようになった。
魚の仕入れは塩釜からしていたが、1950 年代半ば以 降は古川水産から仕入れている。農家はそれぞれオカ ヨイチョウ(御通帳)という記録簿を持っており、魚 屋は売った魚の値段を書き込んだ。この時、魚の料金 は現金で払う人もいるが、基本的にはツケであり、農 家は秋に米の収穫が終わって収入があると、魚の代金 を支払う。その際に、オカヨイチョウの履歴を抹消す ことで支払いは終了となる。1959(昭和 34)年頃に 図 2-17 宍戸会館
店舗を構え、家の女性は店番をし、男性は行商をした。
さらに、1967(昭和 42)年頃から野菜を古川青 果から仕入れるようになり、行商は 2005(平成 17)
年まで続けていた。現在は野菜・魚を注文のあった家 に配達している。
仕出しは 1970(昭和 45)年頃からはじめた。昔 は結婚前の両家の会食から、結納や結婚式、その後の 会食などに仕出しを出していた。1978(昭和 53)年 には、会館として宴会場を備えた。
法事の仕出しのほかにも、若宮八幡神社の例祭の 神饌や、契約講の総会の際の食事を用意し、うどんや そうめんなどの盆棚の供え物、正月の餅、おにぎりや 刺身などの販売も行なっている。
[佐々木施工所(下宿)]
2013(平成 25)年まで下宿にあった施工店である。
主に家の基礎づくりを請け負っていた。ほかに、ブロッ ク積みやコンクリートの補修なども依頼されていた。
仕事は、兄弟や息子、シンルイ関係の人に手伝っても らうこともあった。
[佐々木豆腐屋(上沖)]
豆腐屋を始めたのは 1946(昭和 21)年頃からで あった。現在豆腐屋を営んでいる女性はシュウトから 豆腐の作り方を教えてもらったという。豆腐や油揚げ、
こんにゃく、納豆のほかに、小麦粉やマヨネーズ、サ ラダ油なども売っており、豆腐と油揚げはお店で作り、
こんにゃくと納豆は卸している。午前 5 時から豆腐 作りを行なう。豆腐は防腐剤が入っていないため日持 ちしないが、毎日は作っていない。
また、豆腐屋を始めた当初は、上宿・下宿・中沖・
北谷地・中谷地を自転車で回って売っていた。以前は 支払い方法として、米・豆と商品を交換することもあっ たという。現在は電話などで頼まれれば、配達も行なっ ている。
[千葉魚屋(上沖)]
1990 年代前半まで、上沖生活センターの前にあっ た魚屋である。地域の行事の折詰もそれまで引き受け ていたが、廃業してから以降は上宿の宍戸会館が受け 持っている。
店ではクジラやイルカの肉も販売していたほか、
石巻などから豆腐やこんにゃくも仕入れていた。さら に肉なども販売していたため、なんでも屋のような存
在だったと聞かれる。さらに行商も行なっており、旧 正月には自転車で魚を売り歩いていた。
[東京屋(上沖)]
2005(平成 17)年頃まで、東京屋という店が高 倉小学校の前にあり、日用品や糸、学用品や食料など を売っていた。カキ氷を売っていたこともあった。
もともとは佐藤商店という店名であったが、ほか にも同じ佐藤商店という店があったため、東京屋に改 名し、その後ヤマザキショップとなった。
[伊藤商店(上沖)]
JA 古川高倉支店の向かいに伊藤商店という店が あった。焼酎や日本酒、ビールなどを売っていた。炭 や豆炭を配達してくれることもあった。
[佐藤商店(下沖)]
タバコ屋だが、郵便ポストが設置されており、タ バコや駄菓子のほかに、切手やはがきも売っていた。
[高橋商店(下沖)]
日用品を扱う店であったが現在はない。
[豆腐屋(下沖)]
下沖のある家が営んでいた豆腐屋があった。店を 構えていたわけではなく、頼まれれば豆腐を作ってい たと聞かれる。
[紙芝居屋・アイスキャンディー屋(上沖・下沖)]
1958(昭和 33)年頃、アイスキャンディーを売 り歩き、紙芝居も行なう行商人がいた。アイスは「一 心堂」という店が毎日来ており、「カランカラン」と 音を鳴らしながら歩いた。子どもは、この行商が楽 しみだったとのことである。アイスは当時の価格で 1 本 5 円であった。金がないときは家のニワトリの卵 と物々交換をした。紙芝居は 1 週間おきで経木を鳴 らして来るが、スルメ、または水飴を買うと紙芝居を 見ることができた。
[鹿野商店(中谷地)]
1960 年代半ば頃まで日用品や駄菓子を店で売って いた。